御嶽山 生薬と信仰

この御嶽山は古来より大きく分けて2つの顔を有してきました。
1つは「生薬の宝庫」としての顔。もう1つは「御嶽信仰の山」としての顔です。
1つは「生薬の宝庫」としての顔。もう1つは「御嶽信仰の山」としての顔です。
■ 生薬の宝庫、御嶽山
木曽御嶽山は古来より多くの薬用植物が分布する生薬の宝庫でした。江戸時代は本草学(医薬に用いる生薬の研究)が盛んになり、信州の本草学は木曽から始まったといっても過言ではありません。 当時木曽地方を領有していた尾張藩の取り組みは本格的なもので、研究だけではなく木曽山地での生薬採取を奨励していました。
享保年間(1716-1736)には幕府の採薬師、丹羽正伯らが生薬の採集や調査のために御嶽・駒ヶ岳などを巡っています。
宝暦年間(1750-1764)には木曽代官山村家の医師・三村道益が「木曽薬譜三巻」を著して全国的に木曽薬種の名を高めたほか、生薬の栽培にも取り組んでいたとされています。こうした本草学が最も発展したのは文化年間で、尾張藩士・水谷豊文が御嶽山麓を中心とする 「木曽採薬記」を著しました。

水谷豊文とその弟子たちの研究グループは、中国古代の医薬の帝王・神農氏が「百草(百種類の草)を嘗めてその薬効を試した」という伝説に基づき、「嘗百社」と名付けられました。
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文化七年(1810)頃までに開田地方に残された馬の医学書には、かなり専門的な生薬の処方が記載されており、その中にはダイオウ、カンゾウとともに百草も含まれていました。
■ 御嶽信仰の山、御嶽山
御嶽山に祀られている山神は、国土経営と医薬の神である「大己貴命(おおなむちのみこと)」と「少彦名命(すくなひこなのかみ)」の二神であり、創始の由来ははっきりしていませんが、文武天皇の時代、大宝二年(702)六月に信濃国司高根道基が創建したものと伝えられています。
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この御嶽が修験道の道場として栄えたのは鎌倉時代までであって、田舎山伏達がその修業の道場を中央に求めるようになってからは次第に衰退していったが、文天二十三年(1554)に木曽義在、義康によって再興されました。
しかし、その後の信仰は領主木曾氏をはじめその家臣の保護のもとに発達したもので、道者は山麓の黒沢・王滝等の集落を中心に木曾谷一円にわたり組織され、江戸時代の中期までつづきました。 -

地方的霊場の域をでなかった御嶽が全国的な霊場として広く日本国中の信者から崇敬されるようになったのは、天明年間に現れた覚明行者と普寛行者の二人の熱狂的な布教による結果だと考えられています。

- 覚明行者は尾張国春井郡田楽村の人といわれ、天明五年(1785)に木曾を訪れ、黒沢登山道の観衆につとめ従来は道者しか登拝できなかった御嶽に、地元御嶽神社の社家等の反対をおしきって、一般の人たちも簡単に水行を行っただけで登山できるように改めました。
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覚明堂
普寛行者は寛政四年(1792)に新ルートである王滝口に登山道を開き、江戸市中を中心に関東地方に御嶽信仰の普及をはかり、講社の結集につとめました。
この両行者の努力によって、御嶽信仰は全国的に広がり、さらにその後有力な行者が相次いで現れ、この信仰によって病苦が救われることが信頼され御嶽講社が全国的に結成されました。
この両行者の努力によって、御嶽信仰は全国的に広がり、さらにその後有力な行者が相次いで現れ、この信仰によって病苦が救われることが信頼され御嶽講社が全国的に結成されました。











